邪馬台国の場所を明らかにする、世紀の発見になるかもしれません。佐賀県の『吉野ケ里遺跡』で見つかっていた、有力者のものとみられる“石棺墓”の蓋(ふた)が5日に開かれました。
古代の集落が「ムラ」から「クニ」へ発展する兆しがみえる、吉野ケ里遺跡。去年、300年前の江戸時代から立っていた神社を移転したところ、その下に新たな古墳がありました。
卑弥呼がいた邪馬台国は、魏志倭人伝にも記載されていますが、その場所が九州か近畿か、その他なのか、結論は出ていません。
「土の方に赤いのがうっすら見えましたので、弥生時代で赤色顔料を用いるとなると、高貴というか有力者の墓が多いのかな。誰でも彼でも真っ赤っかということはありませんから」(佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長)
これまで吉野ケ里遺跡では見つかっていなかった“弥生時代後期”の可能性があるといいます。
“石棺墓”は、4枚の石蓋で閉じられていました。内側は長さ192センチ、幅40センチ。「×」などの刻みが表面に見られなかった1枚は、裏側からたくさんの印が見つかりました。埋葬された人の顔の位置にあたり、何らかの意味がありそうです。
「それが邪馬台国の時代であれば、論争に一石を投じることになるのでは」(白木原宜室長)
そもそも、最有力は奈良の纒向遺跡でしたが、30年ほど前、卑弥呼の居館をしのばせる物見櫓(ものみやぐら)跡などが相次いで見つかったことで、佐賀が「邪馬台国時代のクニの中心地」ではないかとフィーバーになりました。
ロマンを抱いてきた佐賀県民は…。
「めっちゃうれしいなと思いました。佐賀は『魅力ない』って言われているけど、めっちゃあるし『過去に栄えてた』って言われてたら、すごくうれしい」(佐賀県民)
「小学生とかに教える際に『佐賀はすごかったんだよ』と教えられたら、すごくいい」(佐賀県民)
「(Q.佐賀説が有力になるのでは)ぜひあってほしい、絶対。それで見に来るとか、この辺が(経済的に)潤うとかはどうでもいい。俺はもう大好きだから、卑弥呼がここであってほしい」(佐賀県民)
発見に沸く佐賀県に、奈良県からは冷静な反応も…。
「赤い塗料は水銀朱だと思うのですが(弥生時代の墓では)よく使われる塗料」(桜井市立埋蔵文化財センター、橋本輝彦所長)
魏志倭人伝にある「卑弥呼の墓」の記載からも、奈良説を押します。
「3世紀の段階で、大型の前方後円墳がすでに出現している。ヤマトの方が可能性が高いのでは。今回のものだけで、九州説・近畿説に大きな影響を与えることは、中から金印とか、極端な話“卑弥呼”と書いた物が出てこない限り、なかなか難しいのかなと」(橋本輝彦所長)
石蓋には密閉するための粘土が付着していましたが、流入した土が予想よりつまっていました。今後、土を掘り下げて副葬品を探します。
「蓋に白い粘土が付着していた。ずっと残されていたから、盗掘されていない。これは非常によかった。全容判明は、来週の半ばごろまでには。乞うご期待」(佐賀県・山口祥義知事)
■『邪馬台国』はどこに…“論争”に影響は
--------------------
もし邪馬台国や卑弥呼につながるような副葬品が見つかれば、邪馬台国がどこにあったのか、今までの論争に大きく影響する可能性があります。
国営吉野ケ里歴史公園が運営する『弥生ミュージアム』によると、邪馬台国の場所については、諸説唱えられています。中国の歴史書『魏志倭人伝』には、魏から邪馬台国へのルートが書かれています。
朝鮮半島から、いくつかの国を経由して『不弥国(ふみこく)』に至るまでは大きな異論はありません。ただ、問題はこの先、邪馬台国までの道のりです。
魏志倭人伝では、不弥国から先について、このように書かれています。
「南のかた投馬国に至る。水行二十日(水路で20日)」
「南、邪馬台国に至る。水行十日、陸行一月(水路で10日・陸路で1カ月)」
「水路で10日、さらに陸路で1カ月」なのか、「水路なら10日、陸路で1カ月」かは分かりません。(以下ソース)
6/5(月) 23:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b51cd975b10b9d9f9bc4205dfeeae6a83d3c1099
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230605-00000099-ann-000-3-thumb.jpg
★1:2023/06/07(水) 17:34:37.63
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1686126877/
古代の集落が「ムラ」から「クニ」へ発展する兆しがみえる、吉野ケ里遺跡。去年、300年前の江戸時代から立っていた神社を移転したところ、その下に新たな古墳がありました。
卑弥呼がいた邪馬台国は、魏志倭人伝にも記載されていますが、その場所が九州か近畿か、その他なのか、結論は出ていません。
「土の方に赤いのがうっすら見えましたので、弥生時代で赤色顔料を用いるとなると、高貴というか有力者の墓が多いのかな。誰でも彼でも真っ赤っかということはありませんから」(佐賀県文化財保護・活用室、白木原宜室長)
これまで吉野ケ里遺跡では見つかっていなかった“弥生時代後期”の可能性があるといいます。
“石棺墓”は、4枚の石蓋で閉じられていました。内側は長さ192センチ、幅40センチ。「×」などの刻みが表面に見られなかった1枚は、裏側からたくさんの印が見つかりました。埋葬された人の顔の位置にあたり、何らかの意味がありそうです。
「それが邪馬台国の時代であれば、論争に一石を投じることになるのでは」(白木原宜室長)
そもそも、最有力は奈良の纒向遺跡でしたが、30年ほど前、卑弥呼の居館をしのばせる物見櫓(ものみやぐら)跡などが相次いで見つかったことで、佐賀が「邪馬台国時代のクニの中心地」ではないかとフィーバーになりました。
ロマンを抱いてきた佐賀県民は…。
「めっちゃうれしいなと思いました。佐賀は『魅力ない』って言われているけど、めっちゃあるし『過去に栄えてた』って言われてたら、すごくうれしい」(佐賀県民)
「小学生とかに教える際に『佐賀はすごかったんだよ』と教えられたら、すごくいい」(佐賀県民)
「(Q.佐賀説が有力になるのでは)ぜひあってほしい、絶対。それで見に来るとか、この辺が(経済的に)潤うとかはどうでもいい。俺はもう大好きだから、卑弥呼がここであってほしい」(佐賀県民)
発見に沸く佐賀県に、奈良県からは冷静な反応も…。
「赤い塗料は水銀朱だと思うのですが(弥生時代の墓では)よく使われる塗料」(桜井市立埋蔵文化財センター、橋本輝彦所長)
魏志倭人伝にある「卑弥呼の墓」の記載からも、奈良説を押します。
「3世紀の段階で、大型の前方後円墳がすでに出現している。ヤマトの方が可能性が高いのでは。今回のものだけで、九州説・近畿説に大きな影響を与えることは、中から金印とか、極端な話“卑弥呼”と書いた物が出てこない限り、なかなか難しいのかなと」(橋本輝彦所長)
石蓋には密閉するための粘土が付着していましたが、流入した土が予想よりつまっていました。今後、土を掘り下げて副葬品を探します。
「蓋に白い粘土が付着していた。ずっと残されていたから、盗掘されていない。これは非常によかった。全容判明は、来週の半ばごろまでには。乞うご期待」(佐賀県・山口祥義知事)
■『邪馬台国』はどこに…“論争”に影響は
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もし邪馬台国や卑弥呼につながるような副葬品が見つかれば、邪馬台国がどこにあったのか、今までの論争に大きく影響する可能性があります。
国営吉野ケ里歴史公園が運営する『弥生ミュージアム』によると、邪馬台国の場所については、諸説唱えられています。中国の歴史書『魏志倭人伝』には、魏から邪馬台国へのルートが書かれています。
朝鮮半島から、いくつかの国を経由して『不弥国(ふみこく)』に至るまでは大きな異論はありません。ただ、問題はこの先、邪馬台国までの道のりです。
魏志倭人伝では、不弥国から先について、このように書かれています。
「南のかた投馬国に至る。水行二十日(水路で20日)」
「南、邪馬台国に至る。水行十日、陸行一月(水路で10日・陸路で1カ月)」
「水路で10日、さらに陸路で1カ月」なのか、「水路なら10日、陸路で1カ月」かは分かりません。(以下ソース)
6/5(月) 23:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b51cd975b10b9d9f9bc4205dfeeae6a83d3c1099
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230605-00000099-ann-000-3-thumb.jpg

★1:2023/06/07(水) 17:34:37.63
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1686126877/
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401>>394
事実の集合から、古代世界を再現するゲームみたいなものだね。
事実とは、書籍や発掘結果、そして出土物の測定などのこと。
専門でやる人たちは、推論の過程を重んじ、結論が変わることを恐れないが、
結論ありきの派閥争いの叩きあいに興じる人もいれば、中二病が炸裂している人もいる。 -
403
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407>>398
まあ、なんか近畿説が劣勢なようだから、ちょっと肩入れしようかなw
他の人も指摘しているように、重要性と言うことであれば、邪馬台国そのものよりも、大和朝廷の母体になった国、という方が歴史的な重要性は高いだろう。
ということは、つまり近畿に邪馬台国(魏志倭人伝に記録された国)はなくても、大和朝廷の母体となった国があったということになれば、それは日本史上、遥かに重要だよんw -
409>>311
後漢書「倭國は古の倭奴國」(キリッ
倭奴國=奴國 とは言ってないじゃん。
それにしても「奴國」が単体のクニの名称ってのがやっぱどう考えても不自然なわけよ、
なんか頭の文字が欠落したとしか思えないんだよ -
411日本の首都変遷
宮崎市→佐賀市→奈良市→京都市→東京23区→?
この流れで行くと新首都はさいたま市になる可能性が高い
相模トラフが跳ね上がる前の2100年までに移転すべきだ -
413>>224
まず帯方郡を拠点にする根拠がない
里数は中国の役人が調べたこと日数は倭人の話というのは他の文献にもあるけど
それが帯方郡からやり直す根拠にならない
南国をイメージって倭の地は暖かいってやつか?あれは倭の話であって邪馬台国の話ではない
邪馬台国は投馬国から水行十日陸行一月の距離と長官副官の名前と女王の都する所としか書いていない
女王国までの行程を確認したとしているが船で二十日更に十日は邪馬台国の道のりであって女王国の道のりとは書いてい -
415
-
418>>415
何言ってるかわかんねえ -
420
-
422>>413
帯方郡からやり直すわけじゃない
陳寿が手にした記録
・魏略など記録の切れっぱし・・・里数による各国の位置関係
・朝貢記録・・・倭人による朝貢に要する日数と道のり説明
これを陳寿がよくわからず直列接続で記載した
陳寿は文書屋だから地理勘は無いからね -
424>>1
田中英道「漢委奴国印(金印)は偽造であった」日本国史学会 令和3年7月10日 日本経済大学(2021/7/10)
Hidemichi Tanaka
https://youtu.be/zoHCHJC11YM
「所謂『金印』は、発見された江戸時代当時の製法そのものであり、明白に『偽造品』である。」
つまり、古代日本が中国に朝貢していたとされる唯一の根拠である『金印』が偽造品だと判明した事により、日本が中国の属国で有ったと言う歴史的事実は一切無く成った。
書籍紹介:
・鈴木勉『「漢委奴国王」金印・誕生時空論』(雄山閣 / 2010年)
・三浦佑之『金印偽造事件—「漢委奴國王」のまぼろし』(幻冬舎 / 2006年) -
426
-
428>>1
黄河文明はコーカソイド、つまり白人の文明だった。
夏王朝は「西方の牧畜民=コーカソイド」が築いた? - るいネット
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=243011
龍信仰を体系付けた紅山文化は五千七百年年前の寒冷化で崩壊して新たに小河文化が誕生します。
この小河文化それを担っていた人々は西方の要素が濃いとされおり、実際に発掘調査の結果、旧満州や黄河流域にはコーカソイドが住んでいたことが確認されています。
つまり現在中国と自称する国が有る地域は、白人に征服された歴史を持つ間抜けな地域であり、
間抜けな黄色い雑種のコーカソイド、それが中国人である。 -
430
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432
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435
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437>>434
纒向遺跡が4世紀前半で終了しているから箸墓古墳建造時のキャンプ場だと見てる -
439
-
441>>437
大型建物には生活痕が見られないというから資材置き場だったんじゃないかな -
443これってもうほとんど九州ってことでええん?
畿内説てほぼ無理筋やんな -
445
-
447>>445
それによってやっぱり正しかった例は? -
449
-
452
-
455キングダムってこれより400年前の話か
中国はやっぱり恐ろしいな -
458>>455
うん。
はっきりいって清までは間違いなく最先端だし。
そもそもルネサンスの三大発明とか中国発だし。
マクロに見れば、むしろ清の時に、ちょっとコケただけで、それ以外は今も昔も最先端行ってる国なんだよ -
462>>446
顔が似てるのは大陸由来の寒冷地適応進化した新モンゴロイドだからユーラシア大陸北部から日本、アメリカ大陸北部にしかいない
ある先天性の障害持ちが新モンゴロイドの特徴を持っていて差別的な病名が付けられていた、現在はダウン症に名前が変わっている -
464
-
466>>455
兵馬俑 誤字 スマホ -
469>>463
弥生時代まで日本列島にはアイヌに似た縄文人しか住んで居なかったが?
古墳時代には南東北まで和人化していて肝心の北東北からは骨も出ないというではないか
対して南九州の隼人地域は9世紀まで独自の文化圏を持っていて住人はアイヌのような顔(つまり和人から見れば異民族)
北東北からアイヌの骨でも出た例があるのかい? -
473
-
477前方後円墳の原型は甕棺
https://i.imgur.com/4ANBcEp.jpg -
479>>477
前方は墓までの通路だって説もある -
481>>480
創造された歴史より卑弥呼率いる邪馬台国の歴史の方が大事。 -
483
-
487県別魅力度ランキング最下位をいつも茨城と争ってるから茨城県民が固唾を飲んで見守るべし
-
489>>487
どっちも埼玉に比べればマシだろ -
493まだ邪馬台国なんて言ってるバカがいるんだ
魏志倭人伝は中国人が書いた妄想、作り話。
邪馬台国も卑弥呼も存在しなかった。
日本には卑弥呼にまつわる伝説や伝承は皆無。
また卑弥呼神社もいっさい存在しない。
存在しないものを追いかけるから未だにどこにあるか特定できないのは当たり前。 -
501>>500
二世紀なんてそんなもんだろwww -
506邪馬台国が危機に晒されてるならなぜ中国ではなく出雲大国主勢力にに助けを求めなかったか
敵だった?
それともそもそも救援が目的ではなく鏡が欲しかっただけか
具体的な理由わかる人に解説して欲しい -
508>>506
日本で一番大きな鏡が出てきたのは糸島の平原古墳 -
511>>506
そんな戦国時代の合従連衡を2・3世紀の日本に求めるのが無理がある -
518何で33000年前のエジプトの中国の墓や歴代の王様の名前わかるのに二千年前の日本の歴史はあやふやなのよ
-
521天皇家の地盤は畿内でしょ?北海道から沖縄まで統治出来てたはずはないし、色々なグループがあったんだろうね
-
524>>520
元はケルト人がいた??🇭🇺ハンガリーって -
527
-
534だからこんな論争は無意味
ヤマト=日本はヤマト=日本にしかない -
537
-
539>>518
ピラミッドは文字が刻まれていたから -
541
-
543あと単純に鏡10枚位を背負って藪漕ぎするのを考えたら
近代のように整備された道を進むのとは訳が違うよね -
545
-
547石棺に書かれた記号の方が重要だと思う。神代文字じゃないの?
-
550>>534
🇭🇺ハンガリーにヤマトあるぞwwww -
552ハンガリーもユダヤもケルトも、ムーみたいなことはもういいから
-
554しかし、雨が凄いし、畿内説のフィクションも渋いし
酒でも飲みますかね -
557>>556
何これ宦官?命令されたんだろうけど気の毒だな -
559>>557
待遇がいいから希望する者は多かった -
562もちろんこの墓もとっくに作られた後程なく盗掘されてそう
石に刻まれたものは魔除けの儀式でも行われた後では -
564>>521
DNAデータで見ると四国から畿内に勢力を伸ばした渡来系 -
566
-
568
-
570
-
572
-
574
-
578左右の方向を書き間違えるならともかく、東南の方角を書き間違えるなんてやらんだろ
文字が書ける人なんて超有能なんだから -
581
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583
-
585
-
587>>578
地図で見ても、呼子から見て糸島は東南じゃないか -
589関東って鎌倉時代になるまで日本の歴史になんの関係もない地域なんだよな
-
591邪馬台国が九州で狗奴国が大和朝廷なんじゃないの?
-
594
-
596
-
598
-
600
-
602>>587
魏志倭人伝には記述はない -
604>>591
それも有り -
607
-
609
-
611邪馬台国が伊都国の東南なりにあったら
魏志倭人伝に伊都国の次に東南二百里 至邪馬台国とでも書かれるはず
そう書いてないという事は邪馬台国は伊都国近辺ではないと陳寿は書いてる事になる -
614>>589
白村江の戦いでは高句麗由来技術の結晶関東の騎馬軍団が駆り出された -
616
-
620
-
622
-
624
-
626>>620
結論は糸島ではないてこと -
628日が昇る方向を東とすれば伊都国は東南にあることになる
https://i.imgur.com/dIBv2jv.jpg -
631
-
633
-
635>>621
邪馬台国が伊都国の南にあったら魏志倭人伝に
伊都国の次に南二百里 至邪馬台国とでも書かれてるはず
けど実際は次に奴国 不弥国 投馬国 そして邪馬台国と書いてる
伊都国の近くに邪馬台国があった書き方とは思えんね -
637>>633
秀吉も朝鮮出兵の為の名護屋城を呼子近くに築城している、対馬海峡の往来には最適の場所だったのだろう -
639
-
641
-
643
-
645>>639
自分は北九州市説かな、神武の岡田宮あたりまでが不弥国だったと思う -
647>>628
これが九州説のレベルたい! -
649
-
651>>644
壱岐が近いから合理的だよ -
653
-
655
-
657>>651
積荷考えると不合理 -
659
-
661>>655
呼子でなくても船から可也山は見える -
663
-
665
-
667>>660
中国河南省の古鏡研究家で鏡コレクターの王趁意氏(1949年生)が、洛陽発見とされる三角縁神獣鏡を、2014年12月に『中原文物』(河南博物院主編)に論文発表した。 -
669
-
671>>639
不弥国は福津から宗像一帯で海人族の国なのでわざわざ書いた -
673>>648
根拠は? -
675
-
677>>659
投馬国は、都麻垣のある宇佐から耳垂のいた耶馬溪くらいの範囲だと考えます -
679>>667
骨董市でみつけただけで出土したものではないね -
681昔は佐賀が国の中心だったんだな
今は… -
683>>302
どっかに銅鐸の読書メモあった気がして探したらあった
()内は俺の補足
『誰が歴史を歪めたか』の森浩一と井沢元彦の対談
「弥生時代の中期の初め(wiki見たら前300~200くらい?)に銅剣・銅鐸が鳥栖、吉野ヶ里、大和町といった有明海沿岸で作りはじめられる。出雲の荒神谷から大量の銅剣・銅矛、銅鐸。そこの銅鐸と似た鋳型が鳥栖で発見」
こういうのもあった↓
「鋭利な銅矛は朝鮮からの輸入とされていたんですが、その鋭利な銅矛の鋳型が今度は吉野ヶ里から出た。それで畿内の学者はショックを受けたようですが」 -
685
-
687>>678
古くからアジア大陸との交易の場として利用されており、近世においては豊臣秀吉による朝鮮出陣の本営地として利用された。 -
689
-
691>>683
なんでそれで畿内説の学者がショックを受けるのか -
693ChatGPTに魏志倭人伝を読ませて何処に邪馬台国があったのか聞いてみたいわ
-
695>>684
日田から金銀サクガンでしょ?日田と邪馬台国関係ありそう -
697
-
699
-
701>>692
その分析を所有者が拒否してるの? -
703>>696
渡来系の子孫が畿内に多い理由は分かりません、まで読んだ -
705>>693
生成AIはすでに書かれている内容同等のこと以上は言えんだろ -
707
-
709
-
711>>690
ああ文化大革命とか言って歴史全部捨てた民族ね -
713親魏倭王の金印が何処かから出土するまで、話は延々に終わんないのよね
-
715>>694
それは場所ではなくて国号の話だろう -
717
-
721>>695
日田の鉄鏡は卑弥呼にふさわしいと思ってます -
723>>685
五万戸の投馬国が千戸の伊都国にひれ伏すというファンタジーだから -
725
-
727卑弥呼と年代が同じなら被葬者は卑弥呼だとか言ってるアホは日本人に必要ないよなw
-
729
-
731>>696
ID出ない奴は相手しちゃダメだよ -
733>>729
オリジナルは山門だよ -
735IDなし
もう二度と相手しないから安心して寝ろ -
737>>704
七万戸は誇張だと思うけど、相対的な規模は把握していると思いたい
伊都国が千戸で奴国が二万戸とおよそ20倍くらいの規模の違いがある
しかもそんな伊都国に使者が常駐し一大卒が置かれているということは
今の糸島市が伊都国で、その東側の奴国(福岡平野)の「山門庄」が
関所のようになっていたのではないか -
739
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742
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744
-
746>>704
距離も戸数も大月氏国に張り合ってるだけで議論するほどの信憑性ないよな -
748
-
750
-
752>>452
非科学的な発言だな
科学というのは誰が検証しても同じ結果にならなければいけないんだよ
他者からの検証に耐えられないような解釈は信頼性が無い
そうやってレッテル貼りするだけで反論出来ないのであればお前の負け -
754
-
756>>753
銅鏡を根拠にするなら、むしろそれは九州の風習で、九州が畿内に影響を与えたという話になるが -
758
-
760
-
762>>755
シャープって、台湾に買収されてからもシャープって名乗ってるんだぜ -
764
-
766大阪人が日本の起源は大阪だって力説してた
-
769>>765
だから難民なんだろ? -
771>>769
そして、畿内に渡来系の子孫が突出して多くなった -
773>>771
なんで難民を近くに置くのよ? -
775>>768
倭国大乱で衰退した地域がどこかはっきりしたな -
777>>772
神武の子孫チームもヤマトに社名変更したんだよ -
779>>775
倭国大乱で女王が擁立された場所もわかるかも -
781
-
783
-
785
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788
-
790>>784
秀吉が呼子から出兵したことと何か関係があるのか? -
792弥生墳丘墓から中国鏡が全く出てこないのが畿内派には致命的
畿内では、3世紀後半以降の古墳から中国鏡が出てくるのみ
それ以前には墓に鏡を埋葬する風習は存在しない
つまり、邪馬台国が大和で、卑弥呼が箸墓に葬られたとしても、卑弥呼の先祖は畿内には存在しないということ
あるなら卑弥呼の時代に東遷くらいか -
794
-
796>>750
いや自国の歴史を燃やす中共さんほどではないっすよ -
799
-
801>>710
例えば新潟で弥生時代の巨大な遺跡が見つかっても、そこが魏志の記述と合わない景色なら、年代が卑弥呼と同時代でも関係ないだろ?
しかし
もし古墳時代以降だったら、まだ下の層から魏志と合う遺跡が出るかもしれない。そしたら新潟説も成り立つ
そういう意味 -
803>>799
2世紀の纏向は未開地なので卑弥呼の住む家もありませんよ -
805>>795
たったそれだけならむしろ魏志倭人伝の一部抜粋と見るのが妥当だろうね -
807>>799
倭国大乱で栄える畿内wwww -
809>>803
畿内は2世紀後半から栄え始めるね -
811>>796
ヤマト王権も燃やしてるんだが -
813>>807
勝者は栄え敗者は衰えるけど何か -
815>>808
つまり唐津港は近世に整備された港であって、古代は天然の良港である呼子を使ってたんだよ -
817>>1
奈良県民からしたら邪馬台国がどこにあろうがどうでもいよ
日本の始まりは奈良っていうのは事実としてあるわけだし、都として栄えたってだけでじゅうぶんだよ
だから邪馬台国は九州ってことでいいよ
九州には何もなくて可哀相だから -
819畿内の断末魔スレになってきたな
-
821>>816
畿内から殉葬でないね…… -
823>>809
いいえ -
825>>819
九州説は不利を感じると必ずこう言うね -
827魏志倭人伝よんで何で卑弥呼の墓が前方後円墳で確定になってんの?
-
829
-
831呼子も唐津のうちじゃねーのけ?
-
833
-
836>>809
纏向に大型建物が出来たのは3世紀初頭 -
838学会か畿内説でほぼ確定
5ch歴史マニアは九州説が優勢
九州としたら高千穂だろうな北部九州はないだろう -
840呼子は蒙古も襲来している
-
842
-
845>>827
円墳でも良いが径百余歩とかそれだけ大きいのがあんまり無いし -
847
-
849>>839
そうだとして何か -
851>>838
その学会ていうのは、よく聞いたら纏向や鏡の分布に関する研究を、畿内説に都合がいいようにこじつけただけで、当の研究者は、誰一人として畿内に邪馬台国があったなんて言っていなかった -
853>>739
二王朝併存がしっくりくる -
855>>845
謎のエリアが径百歩だよ -
857くだらない。
帯方郡は、黄海南道。
ここを起点に南下。
済州島(耽羅、もしくはタムラ)に至る。
これより、対馬海流の影響が強くなり
南下しても海流により日本海側に流される。
潮の流れは6〜4km。
1日で100〜120kmは流されることになる。
帆船にとっては、潮の流れの影響は絶大なんだわな。 -
859>>852
呼子だとイカを食べる楽しみがあり、疲れが癒やされる -
861
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863
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865>>859
アニーで苦しんだりして -
867>>294
文字がないチョーセンはこの時代は役立たず -
869
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871
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873>>871
そして、なんとか畿内にたどり着けるように距離も方角もねじ曲げるんだよな -
875そんな話聞かないな。
かつ!長距離移動で手漕ぎとか、
漕ぎ手を何人のせるつもりや。 -
879>>875
後年の遣唐使船でも漕ぎ手を多数乗せているそうですよ -
881
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884>>878
卑弥呼の墓と書いたものが出てきたら負けと畿内派は言ってるw -
886
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889
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892>>25
「千里にある国立歴史民俗博物館の研究者と佐賀県の考古学者と共同で、コンピューターを駆使して西暦二、三世紀の時点で、一平方キロにどれくらいの弥生遺跡の数があるかを調べたことがあるんです。それでみると、圧倒的に多いのが北部九州の有明海沿岸にまたがる筑紫平野です。ですから、遺跡でみれば有明海沿岸が最有力ということになるでしょうね。ただ、有明海沿岸地域が、これまで重視されなかったのは、その地域が佐賀県と福岡県にまたがっているからです。もっとも、吉野ケ里遺跡が発掘されてからはにわかに脚光を浴び始めましたが」(『誰が歴史を歪めたか』の森浩一パート)
>有明海沿岸地域が、これまで重視されなかったのは、その地域が佐賀県と福岡県にまたがっているからです
銅鐸の鋳型も有明海沿岸、鋭利な銅矛の鋳型も有明海沿岸、半島を経由していない江南からの直接渡来もあり
この辺りに帥升の面土国があって、倭面土はヤマト
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/1030781
>吉野ケ里遺跡周辺で発見されている首長墳墓は時代によって集落の位置が異なり、七田館長は「都市に当たる吉野ケ里を治めた王は周辺の有力な集落から選ばれ、役割を終えると出身集落に葬られた」と指摘する。
まとめると帥升の面土国がヤマトの起源。周辺の有明海界沿岸が連合し、地形的に吉野ヶ里を砦のように使った -
894>>640
全く同じ意見
北部九州に邪馬台国連合体
九州南部に同じ規模の狗奴国
畿内に両者を上回るヤマト政権の基盤
東北に逃れていく先住民
ヤマト政権は土蜘蛛(邪馬台国)を倒して大陸と交流する氏族らを従わせて
後に熊襲・隼人(狗奴国)、続いて蝦夷(先住民)を平定したのだろう -
896>>886
地形リサーチの任務もあっただろ、倭国が呉に寝返った時は攻め込まないといけないかもしれないからな -
898>>805
廣志は倭人伝の引用先の一つと言われてるが、そのまた大元になった一次記録がどうなってたかは確認のしようがないかもね
唯、当の倭人伝の方でも
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史
北に一大率(常に伊都国に居る)を置き諸国を検察させてたってあるわけで
妥当性を考えるなら、位置関係は伊都国の南に邪馬台国なんでない? -
900>>493
大阪の平野区に喜連(きれ)って所があるんだけど
その地名の由来が、古代に中国の呉からきた人が住みついたことで呉(くれ)→きれ になったと言われてるんだよね
中国の呉の時代って卑弥呼の時代じゃない?
邪馬台国や卑弥呼が存在してたら大阪界隈で言い伝えとかありそうなもんだけど
そんなのないし、やっぱ邪馬台国なんてなかったんだと思う -
903>>898
正解 -
905
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907>>899
箸墓や纏向からそれがでても「奈良が九州の邪馬台国から奪った!」みたいな論法になるから無理じゃないかな -
909
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911
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913邪馬台国がどこにあろうと日本が衰退国と言うのは変わりない
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915
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917
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919>>2
卑弥呼「ぬしに幸あれ」 -
922>>915
このあたりは坂を登った高台のあたりか?当時はあの辺りが海っぺりか。いずれにせよこの地図のすぐ北が呼子だし唐津と呼子を区別してる理由の答えにはなってないな -
925>>916
痴呆が進んで掲示板どころではないのでは? -
927
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929森浩一『語っておきたい古代史—倭人・クマソ・天皇をめぐって』新潮文庫
「今のところ、弥生時代に関していえば、絹織物が出ているのは福岡、佐賀、長崎の三県だけです」
「この玄界灘および有明海沿岸の約二十ヵ所の遺跡のうち、絹の一番多いのは、佐賀県の吉野ケ里遺跡です」
「倭人は、一回めの使いの場合は、中国の西南地方やベトナムのほうにつながる織物を持っていっている。魏と対立している後の南のほうに倭国があるように印象づけたのかもしれない。そして、二回めの使いのときは、今度は中国人が見たらびっくりするような絹織物を持っていった。献上物一つをとりあげても、卑弥呼女王というのは、なかなかの国際感覚を持っていたということであります」
>魏と対立している後の南のほうに倭国があるように印象づけたのかもしれない
これも混乱の原因の一つか? -
934邪馬台国の「たい」は九州弁だろ
中国「お前の国は何という名前だ」
使者「ヤマッタイ」
中国「そうかヤマタイか」
みたいなやり取りで -
936
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938卑弥呼が死んだとき墓の周囲におおぜいの奴隷が生き埋めにされたて記述があるんだから
周囲も掘って人骨が出るか調べればいいのでは? -
940>>938
祇園山古墳がまんまそれなんだよな -
942>>922
呼子と断定はできない -
945>>913
やだ、急に現実に引き戻させないでよ -
948>>938
周りは甕棺だらけ -
950>>944
証拠は? -
953
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955>>944
なんで、秀吉の時代? -
957>>950
名護屋城 -
960>>957
魏の時代にはないけど -
962
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965>>962
唐津は? -
967
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969
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971
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973>>934
ネタにマジレスもあれだけど、それなら全部の国にタイがつくわな -
975>>956
読めねえ、はなつてん -
977
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979>>974
狗邪韓国と一支国の間に対馬国が抜けてる -
981>>972
根拠となる資料ある? -
983「日本の記憶喪失」を増長させたくそ馬鹿ども
https://youtu.be/WTP1TKWF33M -
985>>966
無理だろうな
後漢書では狗奴国は九州ではなく本州で隣接してるし、魏志倭人伝では九州の中間より南にある
両方をあわせると、邪馬台国が孤立してることがはっきりする
連合からの造反を倭国大乱と称して誇張しただけで、磐井の乱と似た構図 -
988でも学会で優勢なのは畿内説🥺
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990
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993
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995>>989
リーマン予想が完全解決するまで研究者が居なくならないようなもんだぞ🥺 -
997
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999九州北部にも近畿にも大規模なムラが有ったのだろう
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